B1-イザナギ夜見乃再会

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黄泉比良坂 島根県松江市東出雲町揖屋
イザナギ命が黄泉の国に辿り着くと、イザナミ命は
私はもう黄泉の国の食べ物を口にしてしまったから
元の世界には戻れないが黄泉の国の神々に相談して
みると約束し、決して私の姿を見ないでください」
と言い残す。イザナギ命は見たい気持ちを抑えられ
ず、髪に挿していた櫛の歯を折って火を灯し、イザ
ナミ命の姿を覗く。そこにあったのは、蛆がわき、
体が崩れた変わり果てた姿だった。火雷大神

殯の洞窟 肉体は朽ち果てて骸骨となり、人間の本
来機能は魂に凝縮され、黄泉の本宮内に入って行く


うじたかれころろぎて、頭かしらには大雷おほいか
づち居をり、 胸には火雷ほのいかづち居り、腹に
は黒雷くろいかづち居り、陰みほとには拆雷さくい
かづち居り、左手には若雷わかいかづち居り、右手
には土雷つちいかづち居り、左足には鳴雷なるいか
づち居り、右足には伏雷ふしいかづち居り、あはせ
て八雷神やくさのいかづちがみ成り居りき。
イザナミが死体となって大地母神としてのイザナミ
の本質が明らかになった 雷神が居る所は体毛の有
る場所で動物としての女神の機能はまだ働いている
雷は自然や農業生産を促進する雨風の象徴で一昔前
の農業稲作なら気にすることもない 要はイザナミ
の生産機能は死んではいない 死して生産機能は新
たな再生産機能として生まれ変わることを意味して
いる
古代から神に捧げてきた曲
イザナミは「私に恥をかかせた」と激怒し、予母都
志許売(ヨモツシコメ)にイザナギの後を追わせた。
湯津津間櫛
髪飾り)や湯津津間櫛(この櫛は投げるとタケノコ
となったという)を投げつけて足止めした。


千五百の黄泉軍が追手に加わったが、黄泉比良坂(
ヨモツヒラサカ)の坂本に至るとイザナギはそこに
あった桃の実を投げつけて追い払い、桃に葦原中国
にいる青人草が苦しんでいるときは助けるように告
げて意富加牟豆美命(オオカムツミ)の名を与えた
注、ヨモツシコメやヨモツイクサから逃げるイザナ
ギは、黄泉比良坂で桃の実3つを取り、迎え撃つ。
イザナギは桃の実に向かって、自分を助けたように
、葦原中国の人々が苦しんでいる時に彼らを助ける
ように言い、オオカムヅミの名を与える
最後はイザナミ自身が追ってきたため、イザナギは
千引の石を黄泉比良坂に引いて塞いだ
イザナミは逃げ帰るイザナギに対し、「1日に1000
人殺す」と脅した一方、イザナギは「1日に1500の
産屋を建てる」(1500人新しく生まれさせる)と応
酬した。これによりイザナミは黄泉津大神と呼ばれ
ることとなる

イザナギとイザナミ黄泉の別れ
私感 この段は二人の喧嘩別れの様に見えるが、

イザナギとイザナミ黄泉の別れ
私感 この段は二人の喧嘩別れの様に見えるが、
二人の筋書きにそった行動であった 最後醜女達
を退けてイザナミだけが追って来たのは二人だけ
で話がしたかったからで二人の愛情の深さが垣間
見える その証拠にその後日本の歴史の中心的役
割を担ったのは三貴子と呼ばれるイザナギとイザ
ナミの子供達である
二人の情交の場は殯の場所である そのため魂の
イザナミは長時間戻って来なかった しかし女神
イザナミの肉体機能はまだ生きていた
イザナギは黄泉の国で穢れた身を清めるため日向
(宮崎県)の阿波岐原あわぎはら(宮崎市)へ向
かい、禊をすることにした
身に着けていた衣服などからも神様がうまれた
そして最後に、イザナギが左の眼を洗うと天照大
御神アマテラスが、次に右の眼を洗うと月読命ツ
クヨミが、最後に鼻を洗うと須佐之男命スサノオ
が生まれた
ここで云う黄泉の穢れとは、イザナミの思いでで
ありイザナミの残り香である それは宇気比(う
けひ)であり、浦島太郎伝説の乙姫の化粧箱が乙
姫として実現した 神話のフェティシズムである
さらに重要なことがある
黄泉の入り口は黄泉比良坂 島根県松江市東出雲
町揖屋であった しかし出口となったのは、宮崎
県宮崎市橘の小戸の阿波岐原
何故イザナギは宮崎市橘の小戸の阿波岐原で子を
出雲の国と日向の国
佐賀県嬉野市塩田 塩田川川岸 塩田跡地
宮埼県古代歴史概略
170年頃 - 248年 弥生時代中期
卑弥呼(ひみこ)、は『魏志倭人伝』等の古代中国の史
書に記されている「倭国の女王」と称された人物
倭国で男性の王の時代が続いた(80年間程度か)が、
その後に内乱があり(6年間程度か)、一人の女子を立て
て王とした。その名を卑弥呼といい(卑弥呼の即位)、ほ
どなく成人(十五歳から十八歳か)となっていた。配偶
者は持たなかった。1,000人の侍女が仕えていた。
(238年)6月 - 卑弥呼が派遣した難升米らが帯方郡に到着
。同年12月、魏首都洛陽で天子の明帝(239年説の場合、
新帝となった少帝曹芳、斉王芳)から親魏倭王の金印と銅
鏡100枚を与えるとの帝詔を受けた
(247年)以降 - 男王が立ったが、国が混乱し互いに誅殺し
あい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「壱与(台与、いよ、
とよ)」13歳を王に立てると国中が遂に鎮定した。倭女王
壱与は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそ
のまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句
珠2枚、異文雑錦20匹を貢いだ
紀元前800年から紀元前701年頃 吉野ケ里遺跡
弥生時代前期吉野ヶ里丘陵一帯に集落が形成され始め
た前期には、吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して
「ムラ」ができ始める。また、南のほうの集落に環濠
が出現する。
紀元前100年から紀元前1年頃 弥生時代中期
吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現する。集落
が発展していくとともに、防御が厳重になっている。
また、墳丘墓や甕棺が多く見られるようになる。頂上
から墓壙を掘って14基以上の甕棺を埋葬しているもの
もあり、本州の他の地域でも見当たらない。
紀元50年頃から3世紀の中頃 弥生時代後期
環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨
大化し、3世紀ごろには集落は最盛期を迎える。北内郭
と南内郭の2つの内郭ができ、文化の発展が見られる
。甕棺の数などから推測しておよそ1,200人、吉野ヶ里
を中心とするクニ全体では5,400人くらいの人々が住ん
でいたと推測される。
海岸線は次第に遠ざかり、この時代には吉野ケ里遺跡か
ら2ないし3kmの神埼市千代田町や佐賀市諸富町付近に
あった。筑後川の河口もまたその付近に移ったと推定さ
れ、遺構からは港のようなものがあったと推定されてい
る。吉野ヶ里丘陵は東西両岸を流れる城原川と田手川(
ともに筑後川の支流)を通して、この港と交流を持った
と考えられている。吉野ヶ里墳丘墓のルーツは、朝鮮半
島を経由せずに中国江南もしくは山東半島から北部九州
に直接伝わったとする研究がある

有明海を守る者 火の君 縄文海進と有明海
6000年前縄文海進時の宮崎市の海岸線 海進ピーク
縄文海進は日本の海岸平野で縄文早期中葉から急速に
進み,前期中葉から中期にかけて最高海面期がみられ
る。関東平野では6500~5500年前,大阪平野では50
00~4000年前などで,その頂面高度は現海面上0~5m
である。コトバンク
3万年前 姶良カルデラ(あいらカルデラ)噴火

磐余彦尊(神武天皇)
洞窟内で光に包まれる巫女 古代海洋民の間では
神の御神託による政治が行われていた
占いの場は男子禁制であった 御神託を受け男子
王が配下の者たちを統治し神の巫女である女王は
侍従の腰元達に紛れ姿を見せることは無かった


腰元1000人に囲まれ弟以外に姿を見せることは
無かった
米軍高官及び共犯者斬首作戦始動
Operation to decapitate high-ranking US military
officials and accomplices Behead
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