B1-天岩戸Cave of the Gods of Mythology


B1-天岩戸Cave of the Gods of Mythology

追跡アマミキヨ 久高島 久高島公式 
info domesstic 
天手力男神が岩戸の脇に隠れて立った。
タジカラオ 田+力=男 この理屈で
ウズメ 宇受賣 宇+受=比賣(女)さらに
田に関連付ければ早乙女 女性の霊的力で
豊作を願う 早乙女姿で田植え 
天宇受賣命が岩戸の前に桶を伏せて踏
み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、
裳の紐を陰部までおし下げて踊った この
姿は海女の姿そのもの 海人族そのもの 

水上と水中の色の見え方 水上では目立つが
水中では保護色となる
南洋踊りの歌
裳(も)日本服飾史より抜粋
腰から下、下半身を一周して覆う布で、衣と
裳で正式の服装とされ衣裳(いしょう)とい
われる。天皇の袞冕(こんべん)の御服にも
僧服の袍裳にも裳がある。また藤原時代以後
女子の正装、すなわち女房装束姿の時に袴の
上に腰部の後方だけにまとったもの。
小笠原ボニンブルーの島父島 World Natural
 Heritage, the Ogasawara Islands

卑弥呼 日の巫女

天岩戸 日嗣の洞窟
天皇の系譜はあの世界で受け継がれた嫡子
が受け継がれるとされる
以下はwikipediaより抜粋 私が重要と思う
部分に赤のアンダーライン
台与 母卑弥呼 
台与(とよ)または壱与(いよ)( 青龍3年
(235年) - 没年不明)は『魏志倭人伝』に記
される倭の女王。卑弥呼の後継の男王の次
に、13歳で女王になり倭をまとめたとされ
る。
表記・読み
壹與
『三国志』魏書東夷傳の倭人之条、(通称
魏志倭人伝、陳寿編纂、3世紀・晋代)で
は2写本系統とも「壹與」と記載されてい
臺與
『梁書』諸夷伝 倭(姚思廉編纂、636年
・唐代)、『北史』東夷伝(北史倭国伝、
李延寿編纂・唐代)などに記述。新字体
では「台与」
発音に関する議論
「臺與」を「とよ」と読むのが通説とな
っている
邪馬臺(邪馬台)の発音をヤマドとする
説がある。「臺」の文字は中国の時代ご
とにより、また地方ごとにより異なる。
昔は[də]と表現していた時もあった。「ト」
「ド」の音韻の音節があるとすればこれに
該当する。
魏志倭人伝によると、
女王卑弥呼が死ぬと(または、既に死んで
いた)径百余歩範囲に多数の塚を作り、奴
婢百余人を殉葬した後継者として男王が
立った。 ところが男王を不服として国が内
乱状態となり、当時千余人が誅殺し合った。
改めて卑弥呼の宗女である台与を13歳の女
王として立てた結果、倭国は遂に安定した
張政らは台与に対し、檄文を作って命令し
た。
台与は倭国大夫卒善中郎將の掖邪狗ら二十
人を随行させた上で張政らを帰還させた。
その際、男女生口三十人を献上すると共に、
白珠五千孔、靑大句珠二枚および異文雑錦
二十匹を貢いだ。

上記の文章は「壹與台与(とよ)」に限らず
結構あちこちに散見される それで私は「
私の気に入った部分」で文章を構成しよう
と思う
①、名前 壹與も台与も意味は同じである
台とは、高い所にある平らな場所を表し、
物を載せるための土台や建物を指す
②、名前の構成 国の名前(邪馬臺(邪馬台)
名前に国名の一文字「台」が使われる
河岸段丘が連想できる 叉卑弥呼より受け
継がれた鬼道を執り行っていたと思われる
③、径百余歩範囲に多数の塚を作り、奴
婢百余人を殉葬した 殉死に心を痛めた垂
仁天皇が野見宿禰と相談し古墳に設置され
る事になる 卑弥呼は古墳に葬られていた
少なくなとも垂仁天皇以前の葬送形態をとっ
ていた 
④、倭国大乱 後継者として男王が立った。
 ところが男王を不服として国が内
乱状態となり、当時千余人が誅殺し合った。
改めて卑弥呼の宗女である台与を13歳の女
王として立てた結果、倭国は遂に安定した。
⑤、「台与」の「与」とは
与田浦 古くは與田 

与田浦・横利根川・利根川の風景
⑥、台与は13歳で亡き母の後を継いだので
童女として地位を授かった
卑弥呼死亡後、弟が祭祀と政治権力を行使
使用としたが各国王族の理解が得られず、諸
国の権力争いとなった そこで卑弥呼の娘が
13歳にして女王となった訳だが、卑弥呼の弟
が継続して就任し続けたのか、卑弥弓呼日御
子(男)が童女としての性格を、外れるまで見守っ
たのかは解らないが、名前から推察すると台与
受大神 豊受大神とは天津彦彦火瓊瓊杵尊(あ
まつひこひこほににぎのみこと)、天児屋根命
(あめのこやねのみこと)、太玉命(ふとだま)
印文は陰刻印章(文字が白く出る逆さ彫り)
で、3行に分けて篆書で「漢〈改行〉 委奴
〈改行〉 國王」と刻されている。
このまま読めば糸国王と読める
漢王が邪馬台国の出先機関のよう糸国王に
対し金印を授与しないだろう 糸国が邪馬
台国である 因に邪馬台とはあばれ馬を鎮め
るように邪(よこし)まな王達を鎮静化する
川沿いの高台にある女王の宮殿の意と捉え
る よって女王国は糸国であり、その比喩
が邪馬台国である 
例えて言うなれば中国全人代倭国大使館
とでも言おうか中国官吏が常駐していた

邪馬台国と太宰府の類似性 
太宰府は邪馬台国からの継続性を感じる
一大率は女王国の官人である。その官名は城
郭の四方を守る将軍である大率に由来すると
する説もある(『墨子』の「迎敵祠」条)。
この一大率が太宰府の由来と考えられる

有明海 

有明海の造陸現象 筑紫とは古代の国際国家
筑紫邪馬台国入門 どういう訳かこの辺り
我が故郷常陸の国鹿島に良く似ている地名
が多く出てくる
さて、童女台与を櫛に変え八岐大蛇と戦った
のは誰あろう 
大宰帥(だざいのそち/だざいのそつ)は、
大宰府九州筑紫)の長官。唐名都督
和名は「おほみこともちのかみ」。
有名なのは菅原道真に代表される 菅原道真
公は雷神でもある

何処に落ちるか解らない雷様 しかも雨風
を伴なう雷神は強大な力を持っている
雷神はスサノオの命と言っても過言では無
いだろう
さて、台与の隠れた為政者とは
櫛は柵となって現れる

歴史
縄文時代まで
旧石器時代のナイフ型石器、台形石器、尖頭
器などが出土している。
縄文時代後期の土器片が発見され、吉野ヶ里
丘陵の周辺部に人が生活していたと推定され
ている。その主な理由としては、この地域が
海と近かったことがあると考えられている。
最終氷期が終わり温暖となった縄文時代前期
には、縄文海進と呼ばれる海面上昇があり、
有明海は吉野ヶ里丘陵の南端付近まで広がり、
遺跡から2-3キロメートルほどの距離にあった
と推定されている。
有明海は干満の差が平均で5-6メートルと大き
く、また遠浅の干潟を持つ。この干満の差や
筑後川などの河川を利用した水運に優れたこ
と、また貝やカニといった食料が豊富に得ら
れたことなどの好条件が揃い、この地域に人
の定住が始まったと考えられている。
wikipedia抜粋
縄文時代前期、6000年前最温暖期になり海
進が最盛期となる事で、照葉樹林が誕生す
る。貝塚が増加し、漁労が発達する。
縄文時代中期、5000年前縄文時代の最盛期
縄文時代後期、4000年前再び気候が寒くな
る。貝塚が減り始め、縄文文化の繁栄に陰
りが見え始める。
縄文時代晩期、3200年前稲作(水稲)が中国
(南部)から伝わり、西日本で稲作が始まる。
3000年前呪術が盛んになる。BC1000年頃
BC400年頃稲作が大陸より伝来し、この頃
より弥生文化が始まる(近年では稲作は縄文
時代中期から始まっていた可能性が指摘)
稲作が盛んになる事で国が出来、支配層と
被支配層による貧富の差が生まれる
各地に環濠集落が造られる
BC300年頃九州北部と北海道に鉄器が伝わ
る 九州北部に青銅器が伝わる
佐賀県の吉野ケ里に大規模な環濠集落が造
られる 徐福が中国から日本を訪れる
BC100年頃この頃には100程のクニ(小国)が
存在。「漢書」地理志、倭国からの遣使に関
する記述「倭国は百余国に分かれ、一部の
国が朝鮮半島の楽浪郡に使いを送っていた」
紀元後
1世紀頃近畿地方を中心に銅鐸がつくられる
濠や土塁を巡らした環濠集落が増え、高地
性集落が営まれる石器が消滅し、鉄器が普及
する
57年倭の奴国王が後漢に遣使し、光武帝より
「漢委奴国王」の金印を授かる
107年倭国王帥升(すいしょう)が後漢に生口
(せいこう)と呼ばれる奴隷を160人献上する
147年~189年『後漢書』東夷伝によると
「倭国大乱」が起こる「倭国大乱」以降、
小国家の統合が進む
248年壱与(いよ・とよ)という女性の王が即
位する
266年倭の女王、晋に遣使する
これ以降、316年までは書物による記録はな
弥生時代の項
紀元前800年から紀元前701年弥生時代前期
(紀元前8世紀)頃には、すでに吉野ヶ里丘
陵一帯に集落が形成され始めたと推定されて
いる。前期には、吉野ヶ里丘陵のところどこ
ろに分散して「ムラ」ができ始める。また、
南のほうの集落に環濠が出現する。

紀元前400年頃から紀元前100年頃中期には、
吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現
する。集落が発展していくとともに、防御が
厳重になっている。また、墳丘墓や
甕棺が多く見られるようになる。大きな墳丘
墓になると南北約46メートル、東西約27メー
トルの長方形に近い墳丘で、高さは4.5メート
ル以上あったと推定されている。頂上から墓
壙を掘って14基以上の甕棺を埋葬しているも
のもあり、本州の他の地域でも見当たらない。

弥生時代後期紀元1世紀中頃から3世紀中頃
後期には、環壕がさらに拡大し、二重になる
とともに、建物が巨大化し、3世紀ごろには集
落は最盛期を迎える。北内郭と南内郭の2つの
内郭ができ、文化の発展が見られる。甕棺の数
などから推測しておよそ1,200人、吉野ヶ里を
中心とするクニ全体では5,400人くらいの人々
が住んでいたと推測される。
海岸線は次第に遠ざかり、この時代には吉野ケ
里遺跡から2ないし3kmの神埼市千代田町や佐
賀市諸富町付近にあった。筑後川の河口もまた
その付近に移ったと推定され、遺構からは港の
ようなものがあったと推定されている。吉野ヶ
里丘陵は東西両岸を流れる城原川と田手川(と
もに筑後川の支流)を通して、この港と交流を
持ったと考えられている。
吉野ヶ里墳丘墓のルーツは、朝鮮半島を経由せ
ずに中国江南もしくは山東半島から北部九州に
直接伝わったとする研究がある
脊振山(佐賀県神埼市)徐福伝説
背振山椎原峠西コース
途中矢筈という言葉が出て来たが常陸風土記
に箭括麻多智の記事がある矢筈氏とは結構行
動範囲が広い様だ
饒速日命の正体は徐福だった
速とは流星のことらしい 天の岩船に乗って
やって来たニギハヤヒは火山との関係を感じ
とらせる イサとは本質的で最初のという意
味があり、諫早とは鬼界カルデラ噴火で壊滅
的状態にあった縄文文化の復興に現れた人々
を暗示する

鬼界カルデラ噴火と有明海


米軍高官及び共犯者斬首作戦始動
Operation to decapitate high-ranking US military
 officials and accomplices Behead


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