B1-富士山と筑波山


B1-富士山と筑波山


約10万年から約5000年前まで、古富士火山 (星山期)
小御岳火山がしばらく休止した後、約10万年前から新
たな活動時期に入った。この時期を古富士火山と呼ぶ。
古富士火山は爆発的な噴火が特徴で、大量のスコリア
・火山灰や溶岩を噴出し、標高3,000mに達する大きな
山体を形成していった。古富士火山の山体は宝永山周
辺等富士山中腹に認められるとされていたが中腹のも
のは宝永噴火の堆積物である約2万年前に田貫湖岩屑
なだれを生じた wikipedia
古富士 10万年前から5000年前
創建は古く詳しくは解らない
宮下文書
宮下文書(みやしたもんじょ)とは、富士山の北麓、
山梨県富士吉田市大明見(旧南都留郡明見村)にある
北東本宮小室浅間神社(旧称・阿曽谷宮守神社)の
宮司家だった宮下家に伝来した古記録・古文書の総称
「富士宮下文書」「富士古文書」「富士古文献」、また
相模国の寒川神社に保管されていたと書かれているこ
とから「寒川文書「寒川日記」などとも称される
wikipedia
『常陸国風土記』には、筑波山における歌垣について、
富士山との比較で次のような話を載せている。諸国を
めぐり歩く神祖尊(みおやのみこと)が、新嘗の日に
富士山を訪ねた。ところが富士の神は新嘗祭で忙しい
からと一夜の宿を断った。神祖尊は嘆き恨んで、「この山は
生涯冬も夏も雪が降り積もって寒く、人が登れず、飲食を
供える者もなくしよう」といい、今度は常陸の筑波山に
行き宿を乞うた。筑波山は新嘗祭にもかかわらず、快く宿を
供し、飲食を奉った。喜んだ神祖尊は、「…天地(あめつち)
とひとしく 月日と共同(とも)に 人民(たみぐさ)集い賀
(よろこ)び 飲食(みけみき)豊かに 代々(よよ)絶ゆるこ
となく 日々に弥(いや)栄え 千秋万歳(ちあきよろずよ) 
たのしみ窮(きわま)らじ」と歌った。それから富士山は
いつも雪に覆われて登る人もなく、筑波山は昼も夜も人が集い、
歌い飲食をするようになったという。『常陸国風土記』の成立は
養老年間(717年 - 724年)だが、既にこの頃には筑波山に男女
が集う嬥歌(かがい・歌垣(うたがき))の場であったことが
わかる wikipedia
筑波山は標高877mの女体山と871mの男体山からなる
双耳峰で、「西の富士、東の筑波」と称される名山
女体山の方が標高が高いことから女上位の山とされている
創建は2000年以上前
古富士の時代の富士山と筑波山の山の形を比べると良く似て
いる 二つの山を主題としている物語も存在しているので
古くは同じ民族が関与した形跡がある
蘇民将来伝承
備後の国の風土記にいはく、疫隈(えのくま)の国つ社。
昔、北の海にいましし武塔(むたふ)の神、南の海の神の
女子をよばひに出でまししに、日暮れぬ。その所に蘇民将来
二人ありき。兄の蘇民将来は甚貧(いとまづ)しく、弟の
将来は富饒みて、屋倉一百ありき。ここに、武塔の神、宿処を
借りたまふに、惜しみて貸さず、兄の蘇民将来惜し奉りき
すなはち、粟柄をもちて座(みまし)となし、粟飯等をもちて
饗(あ)へ奉りき。ここに畢(を)へて出でまる後に、年を
経て八柱の子を率て還り来て詔りたまひしく、
「我、奉りし報答(むくい)せむ。汝(いまし)が子孫(うみ
のこ)その家にありや」と問ひ給ひき。蘇民将来答へて申し
しく、「己が女子と斯の婦と侍り」と申しき。即ち詔たまひ
しく、「茅の輪をもちて、腰の上に着けしめよ」とのりた
まひき。詔の隨(まにま)に着けしむるに、即夜(そのよ)に
蘇民の女子一人を置きて、皆悉に殺し滅ぼしてき。即ち詔り
たまひしく、「吾は速須佐雄(はやすさのを)の神なり。
後の世に疾気(えやみ)あらば、汝、蘇民将来の子孫と云
ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔り
たまひき。(釈日本紀 巻の七)wikipedia
武塔の神 速素戔嗚
蘇民将来(兄)貧しい筑波の神
 蘇民将来(弟)豊 富士の神
歌垣
歌垣の風習は、日本の他に、中国南部からベトナム、インドシナ
半島、フィリピンやインドネシアにも存在する。このことから、
古代日本の文化は、東南アジアから中国南部にかけての地域と、
一体の文化圏を築いていたという見方もある。

この話越の沼奈川姫の話とよく似ている
縄文の姫君を出雲の大国主が夜這いして
出雲に連れ帰った 一緒に技術者集団も
連れ帰るが 夫やその他の者たちは殺害
した 後に沼奈川姫は郷里へと脱出して
池に身を投げたという伝承がある 郷里
の池に身を投げることで 越の女神として
永遠性を選んだのだ
素戔嗚の妻とは
天照大神 誓約によって結ばれた誓約に
よって生まれた神々
宗像三女神
多紀理毘売命たぎりびめのみこと
市寸島比売命いちきしまひめのみこと
多岐都比売命たぎつひめのみこと

正勝吾勝速日天忍穂耳命 まさかつ
あかつかちはやあめのおしほみみのみこと
天穂日命 あめのほひのみこと
天津彦根命あまつひこねのみこと
活津彦根命いくつひこねのみこと
熊野久須毘命くまのくずびのみこと
以上の神々は誓約の妻である天照大神
との間にセックス無しで生まれた
神々である つまり肉体交渉無しで
霊力にる性交渉によって出来た子である
神は肉体交渉無くして子ができるのである

妻 クシナダヒメ(櫛名田比売)
原文で「童女」と記述されるように、クシナダヒメ
自身はまだ年端もいかぬ少女である
少女は霊力の強い巫女的存在である
これに良く似ているのがネパールの
少女神クマリである
クマリ(Kumari、Kumari Devi)は、
ネパールに住む生きた女神である。
サンスクリット語で「少女」「処女」を
意味する密教女神ヴァジラ・デーヴィー、
ヒンドゥー教の女神ドゥルガーが宿り、
ネパール王国の守護神である女神タレージュや
アルナプルナの生まれ変わりとされており
、国内から選ばれた満月生まれの仏教徒の少女が
初潮を迎えるまでクマリとして役割を
果たす。中には初潮が来ず、50歳を
過ぎてもクマリを務めているケースもある。

セックス 受胎 妊娠出産が他の神々に委ね
られている場合
エイレイテュイア
神々の王ゼウスとその正妻ヘーラーの間に生まれた娘で
、結婚の神でもあるヘーラーの供として出産と産婦の
保護を司る。
ただし肉欲はアプロディーテーが、受胎は
アルテミスがそれぞれ司っているので、
エイレイテュイアが力を及ぼせるのは子供を出産する
ことに限定されている。
その代わりエイレイテュイアが立ち会わない限り
産婦は出産できず、ゼウスの子を身ごもったレートーが
臨月を迎えた際に、浮気相手を憎んだヘーラーの言付け
でエイレイテュイアが行かなかったため、レートーは
大変な難産に苦しんだ。その後、他の女神達から
贈り物を渡され説得された彼女はイーリスに連れられて
レートーの出産に立ち会っている wikipedia

古富士山の時代 10万年前から5000年前
wikipedia
日本列島の旧石器時代(にほんれっとうのきゅうせっき
じだい)は、始まりは現生人類が初めて日本列島へ
移住した4万年前以降、終わりは次の縄文文化が始まるとされる
1万6500年前までの時代を指す。ヨーロッパの考古学時代
区分の後期旧石器時代におおむね相当する 打製石器を用い
、土器は使用しなかった。人類人骨の出土例は多くない。
無土器時代、先土器時代、岩宿時代(いわじゅくじだい)
とも呼称される。
この現生人類は東南アジアを起源とする集団が東アジア
沿岸を移住しながら北上し、一部が当時の陸橋もしくは
狭い水道(対馬海峡・宗谷海峡)を渡り、日本列島へ移住したと
考えられている。この現生人類のうちで旧石器時代に
絶滅しなかったものが、縄文文化・新石器時代を始めた
縄文人の祖先となったと考えられているwikipedia

4万年前現生人類が古富士山と筑波山を目標として
渡来した可能性がある
大鹿窪遺跡は、富士山の南西部、西に天子山地、東に羽鮒
丘陵を望み、北から南へ流れる芝川の左岸、西向きに傾斜
する緩やかな斜面上で、ほ場整備に伴う発掘調査で発見
されました。遺跡は、富士山の溶岩である芝川溶岩流の
すぐ上にあり、発掘調査の時には遺跡の各所で溶岩を見る
ことができました。遺跡の中心部からは、東側にある丘陵
越しに、富士山の姿を見ることができますこの丘陵は
羽鮒丘陵と呼ばれるもので、丘陵の東側は急斜面となって
いますが、西側は比較的緩やかな斜面で、その上からは
旧石器時代から縄文時代草創期・早期の遺跡が数多く発見
されています。

弥生時代は、今からおよそ2300年前(紀元前3世紀)
からおよそ1700年前(3世紀)までをいう この
時代は、中国大陸や朝鮮半島の文化の影響を強く受
けて、鉄製の道具や鏡や剣のような青銅製の祭器
(儀式などに使う道具)などを持つようになった
また、弥生時代を特徴付ける米作りも広まり、
それまでの狩りや採集から稲作を中心とする生活に
変わった時代 その後の米を主食とする日本の文化
もとともなった 富士市公式

筑波山旧石器時代
東耕地北遺跡
茨城県つくばみらい市小張5199-2番地ほか
つくばみらい市の中央部,西谷田川と中通川に挟まれた
標高20mの台地上
主な時代 旧石器時代縄文時代
調査によって,旧石器時代の石器製作跡,縄文時代中期末葉
から後期初頭にかけての集落跡を確認した
旧石器時代の遺物は,黒曜石・頁岩・安山岩・瑪瑙など,
複数の石材を用いていたことが分かった
 発掘遺物 時代区分 縄文時代中期末葉(約4,000年前
縄文時代後期初頭 縄文時代後期初頭4400年前
製塩専業集団、塩媒介集団、塩消費集団。伸展葬。
交易目的の漁労民発生。

筑波山弥生時代
弥生時代
筑波町で確認されている弥生遺跡の数は,縄文遺跡の数
より少なくなります(町史上巻p. 53).桜川の左岸では,
神郡条里遺跡,漆所上ノ台遺跡,北条中台遺跡があります.
桜川の右岸では,中菅間遺跡,中菅間福王地遺跡,明石遺跡,
水みもり守荒神遺跡,水守観音下遺跡,
山木舛田遺跡があります.

富士山石割山巨石信仰
筑波山奇岩群
淡路島巨石信仰
日本中に数多くある巨石信仰は旧石器時代の海洋性
先住民であることが予想される
それはイザナミ イザナギを多く祭る場所でもあり
武塔の神が夜這いの途中立ち寄った国でもある
およそ4万年前旧石器時代の話である



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